もしもシリーズ②「もしも道綱の母が女房勤めをしたら?」

「女房」は現在では結婚相手を意味する風流な言葉ですが、平安時代では、帝の妃たちに仕える女性の名称でした。前回のテーマは、蜻蛉日記の作者である「藤原道綱の母」の「結婚」についてでしたが、今回は「女房とゆう仕事」についてです。女房勤めをした女性たちを例に、「もしも」を考えていきたいと思います。

「女房勤め」のメリットとデメリット

貴族の娘が女房になるとゆうのは、大雑把に「主人」から「従者」に立場が逆転する事です。家に居ればずっと「姫さま」で居られますが、女房になると「姫さま」に仕えなければなりません。家の奥で他人に顔を見られないように生活し、外に出ると言えばお祭りかお寺詣で、夫が来なくなったからと言って自分から行くわけにはいかない当時の貴族女性。宮中とゆう場所で、世の中と他人を見ることになる「女房」とゆう仕事が魅力的か、そうでないか、人によるとしか言えないのではないでしょうか。

イケイケ、ブイブイ!丸の内、花のOLライフ‼清少納言!

大胆に活き活きと鋭く、様々な事を書き連ねてあるエッセイ集「枕草子」。素晴らしく思う反面、才気が有り余って「ちょっといい気になってるんじゃ…」と思わずにはいられない箇所も。かの紫式部も愛する夫を馬鹿にされて頭に来たほどです。清少納言の晩年の「落ちぶれた説」があるのも、当時から気に食わない人がいたんじゃないかな、と思ってしまいます。

とはいえ、社交的で機転の利く清少納言は、女房に向いた人材でしょうし、本人も誇りと自信をもって勤めていたことがうかがえます。

「道綱の母」がもし女房勤めをしたら。美人で賢いわりに不器用なところがありますので、不可解な「女子のノリ」についていけそうにありませんし、人の立場になってものを考える風習がないので、あまり頭角を現せそうにないような。鳴り物入りで入社して、「なんか向いてません」とすぐ辞めちゃうタイプかも。

物語と学問で何とか女房勤めを乗り切った!紫式部

どちらかというと内向的だった紫式部。女房勤めに出たのも諸般の事情からでした。華やかな反面、噂と陰謀渦巻く宮中に嫌気がさしましたが、仕えていた藤原道長の娘、彰子の配慮で「もーあなた源氏書いてればいいからさ」となりました。それほど源氏物語は当時から人々の心を惹きつけていたのですね。

社交的でなくても女房が務まる実例かもしれませんが、「道綱の母」ならどうだったのでしょうか。詩歌の才能は折り紙付きですし、物語はともかく記録である日記を頼まれたら、素晴らしい物が残ったかもしれません。しかし、「蜻蛉日記」は夫に対する恨みつらみで筆が冴え渡りましたが、マイナス要素がないと文章が輝かないタイプの書き手の可能性はあります。

史上最強の浮かれ女‼自由に生きた!和泉式部!

和泉式部は、紫式部と同じく藤原道長の娘に仕えました。雇用主である道長から、「浮かれ女」とふざけて言われるほど、和泉式部は、その知性と美貌で人生を謳歌しました。現代的な強い心を持った女性だったのではないでしょうか。人からどう思われるか心配している人生ではないのです。和泉式部の歌がとても好きです。ずっと「わいずみしきぶ」と読んでましたが。この「和」要りますか?要りますね、地名ですし。

「道綱の母」も女房になったら、家に居た以上にモテたと思うのですが、プレイガールの素養があるとは思えません。愛情の裏返しとも言えますが、嫉妬深いですし。とりあえず和泉式部のように恋愛を楽しむのは難しいかも。

有力貴族が、帝の妃となった自分の娘のために雇った「女房」。有能であったり、才能があったり、見目がよかったり。結局は娘を引き立て、帝の気を引くための存在でした。偶然か必然か、女房スカウトの話は道綱の母にはなかったようです。しかし、そう考えると藤原兼家との結婚がいかに玉の輿であったか、改めて感じます。

次回は、もしもシリーズ第3弾「もしも道綱の母がしゅっけしたら」を語りたいと思います。


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